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テーマ“正”

正しさとは何か?という主観的理論。
結論から言おう。
その時、その場所、その経緯
その文化、その世代、その状況
色んなものが複雑に絡み合って
正解などという答えは無い。
しかし、正解と正しさとはまた別のもの。
正しさとは何をもって正しいとするか。
その目的によって異なってくる。
例えばお金を稼ぐことを目的としている。
友達と会えなくなるかも知れないけれど
自分の行動次第では、ずっと仲良く楽しく会える状況が目の前にある。
しかしそれは、自分の目的である金稼ぎと天秤にかかっている。
前記に記したように、金を稼ぐことが目的である。
ならば、友達と会えなくなっても、金を稼ぐことが正しさと言えよう。
友達と会いつつ、妥協して生きることを目指しているのなら
天秤に乗った逆側を選ぶことが、正しさと言えるだろう。
ならば正義とは何か。
私が出す答えは二つ。
一つは驕りである。
道徳的正しさを求められる正義の概念。
しかしその道徳とは誰が決める?
人を殺すことを誰が悪と決めつけ
人を生かすことを誰が善と決める。
そしてその道徳を守ったところで
そいつは正義なのだろうか?
答えはノーである。
自分はこんなにも道徳的である
こんなにも人を救っている
こんなにもルールを守っている
こんなにも優しくしている
自分はこんなにも“正しい”
自分を正義だと信じて疑わない。
それが正義の正体であると、私は思う。
余談であるが、誰でも必ず持っているこの正義というもの
これがなぜ人の心に住みつくのか。
それは、持っていないと生きていけないからだと思っている。
自分が正しくないと思うということは、自分を否定しているということで
この世を生きづらく生活している人間だと思われる。
かくいう私もそうだった。
そして、ふと周りを見てみれば
日常を平然と過ごしている人間は大抵
自分が正義だと信じて疑っていない者が、殆どであった。
話を元に戻そう。
私の出す正義の定義、二つ目。
正義は自分の中にしかないものである、ということ。
前記での正義は“既に形ある枠”に自ら入ることによって
自分には正義があると、思い込み始めている。
しかし今回二つ目の定義は
その正義の枠を自分で作り、ポリシーとして心に宿すものである。
自分はこうするのが、自分のやり方。
自分はこういう時に、こうしたい。
他人はああ言うけれど、自分はこうだと思うし、こう実行する。
しかし、これも自分の定義や行動に酔ってしまえば、ただの驕りである。
これが私の思う正義の定義。
私の正義の持ち方は後者である。
ここに私の正義という名のポリシーを記す。
筋を通すということ。
それが私の正義である。
相手を傷つけたら謝る。
少しでもこちらに非があればの話である。
その非の定義はまた議題になってしまうのだが、それこそケースバイケースなので、割愛させて頂く。
そして私の悪いところは、筋を通すと言ったものの
悪いことはしないとは言っていない、といった事である。
悪いことはする。
相手も傷つける。
親にも迷惑をかける。
でも、確実に謝るべきことは謝る。
謝ればなんでもいいのかと言えば、そうではない。
しかし、悪いことをするなと言われても、きっと私はするだろう。
そんな自分をダメだとも思う。
だから自分が正義だとはこれっぽっちも思わない。
願わくば、自分の正義は
美味しい料理を作ることだ
犬を立派に育てるブリーダーであることだ
患者の命を救うことだ
人を笑わせ、元気づけることだ
そう言った一つのもの特化した事を正義だと言える
人間になりたいと思っている。

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